「さあ、本庄さん!」
高まる私の鼓動が最高潮に達しようとしたその時、
マスクの下に隠された、類稀なるであろうその美貌の一部を
構成する、その口から発せられたその言葉に、
私は耳を疑いました。
「検査の結果、触診はしなくても宜しいのですが、当分は足の負担を
和らげるために、松葉杖を使って下さい。それから、一番大事な事で
私からのお願いなのですが、コップ一杯のビールも杯一杯のお酒も
とにかくアルコールは治療がすむまで控えて下さいね。」
パンツはおろかズボンも脱がなくてすんで、
ほっと一安心の私に無常にも下された鉄槌。
茫然自失になりながらも、美人にはめっぽう弱い私は
二つ返事で「はい、先生の言う通りに致します。」
こうして、人生初めての「松葉杖生活」が始まりました。
自他共に認める「鉄人」だった私は、松葉杖など使ったことなど
あるはずもなく、おまけに不器用この上もない性質で
通勤途中で、道路の突起物や鉄板に杖の先端を当てては転び
当てては転び、何度も何度もつまずいていました。
そんな状況の中、何かがおかしいとふと気づきました。
「無意識に痛くない方の足を庇って歩いている。」 そう、痛いのは右足なのです。
「これは、修正しなければいけない。」と慎重な私は改善策を講ずることを
決意しました。
「まず、右足と同時に杖を一歩、いやこれは違う。さっきと一緒だ。」
「それでは、左足と同時に杖を一歩、そうだ、これだ、これだ。」
数十メートル歩きながら、私はにやにや笑いながら一人ごちました。
「この発見は俺にとってきっとコペルニクス的転回になるだろう!」
松葉杖生活の階段を一歩上がった私に、更なる難問が待ち受けていました。
これまで、身体のためにとあまりエスカレーターを利用したことがなかったのですが、
杖を使うようになって、安全性のために、利用するようにしました。
自分なりの新発見に酔いしれていた私は、出勤途中のある時
エスカレーターに身を乗せました。
「松葉杖も俺の手にかかれば、ちょろいもんだな。」
それより何時になったら、おもっきり酒を飲めるんだろうな。」
そんな不遜な考えが頭をよぎった瞬間です。
私の意思に反して、松葉杖と私の腕が同じ動きを始めました。
「わわわああ、しまった!」
そう、乗る時に平らだったエスカレーターがその定めに従って
回転運動を始めた瞬間、私の胴体とその一段上においた
松葉杖、いや腕を切り離しにかかります。
「わああ、腕が、腕が。」
肩が首吊り状態、手を放そうにも杖の上の部分がレーンの脇に
食い込んで離れません。
「このままでは、肩がはずれてしまう。」
痛みとあせりで気が遠くなりかけてその時、
不遜な考えを抱いた私を呪縛から解くように
二階フロアーの光景が目に入ってきました。
そう、エレベーターがその定めに従って、
私を二階へ運んでくれたのでした。
「助かった!」
でも、こんなみっともない姿を誰かに見られたのでは、私は周りを
見渡します。幸いなことに誰もいません。
「いや、絶対誰かが見ていたはずだ、いや見てないはずがない。」
私は杖を担いで一刻も早くこの場を立ち去ろうとしましたが、
松葉杖が私の胸中をあざ笑うかのように、動いてくれません。
仕方なく私は、何事もなかったかのように、 そっとそっとその場を離れて行ったのでした。
不器用で、鉄人でもなくなった私ですが、とにかく私は負けず嫌いなのです。
こうなったら、誰にも負けないくらい、松葉杖を上手に使えるように・・・・・。
そんな事より、一日も早く足を治して、仕事もバリバリ、お酒もおもいっきり飲みたい。
「人事を尽くして天命を待つ。」 今はそんな心境です。
拙著 「悪戦苦闘中」 ご覧頂き有難うございました。
今後も折りにふれて、心境を縷々綴ってまいります。
ご期待下さい。
茶碗亭 はくまい